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富士山が世界遺産に選ばれたわけ

芸術の源泉 / 俳句に見る富士山

世界最短の詩型である俳句の世界にも富士山を題材にした素敵な作品がたくさんあります。五月富士、赤富士、富士薊、富士の初雪など、富士山は季語(季題)にもなっています。
富士山は、江戸時代の松尾芭蕉、小林一茶、近現代では、正岡子規、高浜虚子など、多くの著名な俳人に詠まれてきました。静岡県では、古今の俳人の「富士山の俳句」の中から、心に残る句を全国から募集し、『富士山百人一句』として編纂いたしました。
その中から、いくつかご紹介します。句評は『富士山百人一句』選考委員の須藤常央委員です。

新年の句

内藤鳴雪(ないとうめいせつ)[1867 - 1926]

元日や一系の天子富士の山

【句評】
鳴雪は正岡子規より二十歳も年長であったが、こと俳句に関しては子規を師と仰いでいた。もちろん、鳴雪自身も子規派の長老として後輩達から一目置かれる存在であった。
掲句(けいく)は鳴雪の代表句であるが、一系の天子は万世(ばんせい)一系の天皇制のことで、富士山と共に世界に比類なきものである。
元日ともなれば改めて日本の国体を誇りに思ったに違いない。それは明治を生きた人の自然な感情でもあった。

高浜虚子(たかはまきょし)[1874 - 1959]

初空にうかみし富士の美まし国

【句評】
よくぞ静岡県を称えてくれた、と思いたくなるような句であるが、もちろん山梨県も神奈川県も富士の美まし国である。
ただ、この句が発表されたのは虚子主宰の「ホトトギス」昭和十七年一月号。前年の十二月八日は、真珠湾攻撃に始まる日米開戦の日である。
そう思うと「富士の美まし国」は、日本国そのもの。ミッドウェー海戦まであと半年余り、まだ虚子の心に戦争の陰はない。

春の句

小林一茶(こばやしいっさ)[1763 - 1828]

なの花のとつぱづれ也ふじの山

【句評】
一茶には有名な句が多いので掲句(けいく)はこれまで余り目立たなかったが、それでも一茶の個性は発揮されている。菜の花と富士山では綺麗(きれい)過ぎる。中七に両者を裏切るような言葉の斡旋(あっせん)ができてこそ、一茶らしさが出るのである。
「とつぱづれ(ずっと端の方)」などという俗語を使いこなしている様は、一茶以外の何者でもない。諷刺(ふうし)や自嘲(じちょう)の句が多い中にあって、掲句(けいく)は客観写生句に近い。

正岡子規(まさおかしき)[1867 - 1902]

ぼんやりと大きく出たり春の不二

【句評】
霞富士か朧富士であろう。春の富士山を言い得て妙である。
子規は生涯に四百句ほど富士山を詠んだと言われているが、子規の「俳句分類」にも子規以前に詠まれた富士山の句を可能な限り収録している。それだけ富士山には格別な思いを寄せていた。
一時は東京根岸の病床から静岡県興津(おきつ)への転居を本気で考えていた子規ではあったが、富士を枕に逝く覚悟であったのかも知れない。

夏の句

与謝蕪村(よさぶそん)[1716 - 1784]

不二ひとつうづみのこして若葉哉

【句評】
敷き詰めたような木々の若葉の上から富士山が見える。富士山を埋(うず)めないで残してくれたのは、その若葉であるとの措辞(そじ)。
表現にわざとらしさが残るが、そこが却(かえ)って面白いのであろう。同じ蕪村の「五月雨や大河を前に家二軒」等の素直な表現の句に比べるとその違いが分かる。
ただ、取合(とりあわ)せの相手が富士山ならば、それもご愛嬌(あいきょう)。季題は若葉で夏。蕪村は画家としても有名。

中川須美子(なかがわすみこ)[1923 - ]

夏富士や岩の如くに牧の牛

【句評】
俳句では「何々のようだ」の意味でよくこの「如し」を使う。ただ、安易に使われるためか、余り感心しない句が多い。
朝霧高原辺りの情景であろうか、俳句は絵画に近い文芸と高浜虚子なども言っているが、確かに掲句(けいく)は一幅(いっぷく)の絵になっている。
夏富士は夏の富士山の総称。歳時記の夏は立夏から立秋の一日前まで。
作者は大正十二年生れ。現役の俳人で後進の指導に当っている。元静岡県職員。

秋の句

松尾芭蕉(まつおばしょう)[1644 - 1694]

霧しぐれ冨士を見ぬ日ぞ面白き

【句評】
芭蕉に富士の名句なし、と思うのは私だけであろうか。同じ静岡を詠んだ名句「駿河路や花橘も茶の匂ひ」とは知名度が違う。
秀句(しゅうく)は玄人(くろうと)が誉(ほ)めればその資格を得るが、名句ともなるとさらに圧倒的多数の素人(しろうと)の人気を勝ち取る必要がある。
名句とは言えないまでもそこは芭蕉、見えない富士を楽しむだけの心の余裕がある。
季題は「霧しぐれ」で秋。霧が時雨のように降ることの意。箱根路での作。

河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)[1873 - 1937]

この道の富士になり行く芒かな

【句評】
御殿場の富士演習場の中は秋になると一面の芒原になる。その中を車で案内してもらったことがあるが、その時この句を思い出した。
「富士に近づく」ではなく「富士になり行く」との臨場感の高い措辞(そじ)は見事。
碧梧桐と高浜虚子は正岡子規門の双璧と呼ばれていたが、子規没後は対立した。
「冷やかなること水の如く、碧梧桐の人間を見るは猶(なお)無心の草木を見るが如し」とは子規の評。

冬の句

松島十湖(まつ���まじっこ)[1849 - 1926]

ふじは只はれて時雨の大井川

【句評】
時雨は冬の代表的な季題であるが、東京の時雨は暗く京都の時雨は明るく、東西で印象が違うようだ。
十湖の見た時雨はいずれであったか、遠景の富士は明るく近景の大井川は暗く時雨れていたと思いたい。
十湖は大正十五年に没したが、篤志家(とくしか)で「はま松は出世城なり初松魚(はつがつお)」は代表句。浜松市では十湖の遺徳を称えるべく十湖賞俳句大会を毎年開催している。

原田浜人(はらだひんじん)[1884 - 1972]

雪富士の現れて一番渡舟かな

【句評】
掲句は昭和十八年芦ノ湖での作。当時はまだ湖や川で生活の足としての渡舟が、使われていたのであろう。
この句は最初の舟が出る正にその時、霧か雲に隠れていた雪富士が出現したのである。見つめる浜人の感動が伝わってくるようだ。
浜人は高浜虚子の弟子。対立し虚子の下を離れたが晩年和解した。浜松で俳誌「みづうみ」を創刊。浜人の長男喬(たかし)は俳誌「椎(しい)」を創刊。二誌は現在も浜松で継続発行。

静岡県では、『富士山百人一句』をご希望の方に無料で配布しております。

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