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富士山が世界遺産に選ばれたわけ

芸術の源泉 / 絵画に見る富士山

富士山をとりまく様々な出来事は、信仰や芸術にも大きな影響を与えました。
富士山と信仰・芸術の関わりをご紹介します。

時代別に見る

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平安時代前記〜平安時代

富士山はいつ頃から描かれるようになったのでしょうか?

文献によれば、10世紀に入ると、富士山を描いた屏風絵があったことが記録されていますが、残念ながら作品が残っていません。現存する最も古い絵画は、平安時代に秦到貞(はたのちてい)が描いた「聖徳太子絵伝(しょうとくたいしえでん) 第三面」(1069年 東京国立博物館)です。

富士山は、たびたび噴火し、霊峰として畏怖される神の山であり、人々が簡単に登ったり、描いたりすることができる山ではありませんでした。

この絵が描かれた平安時代、日本仏教の祖として人々の尊敬を集めていた聖徳太子は、人間を超える超能力を持っている存在として神格化されるようになりました。霊峰富士を飛び越えるという富士山登頂伝説を背景に、この作品が生まれました。

太子信仰の広まりとともに、『聖徳太子絵伝』が数多く制作されるようになりました。この絵の中の富士山は、山頂がでこぼこしていて急勾配、どこか中国の水墨画の山のようです。実際に見たのではなく、想像で描いたものだと思われます。

11世紀末以降になると、富士山の火山活動が一時休止状態に入ります。この頃から、富士山では修験者が富士登山をするようになりました。平安時代末期の末代上人(まつだいしょうにん)が最も有名な修験者です。しかし、富士登山は、厳しい修行の場であり、まだまだ一般の人には縁遠いものでした。

秦致貞 『聖徳太子絵伝 黒駒太子』【部分】

秦致貞 『聖徳太子絵伝 黒駒太子』【部分】

Image:TNM Image Archives

秦致貞『聖徳太子絵伝 黒駒太子』

秦致貞『聖徳太子絵伝 黒駒太子』

Image:TNM Image Archives

鎌倉時代

鎌倉時代になると、『聖徳太子絵伝』だけでなく、『一遍聖絵(一遍上人絵伝) (いっぺんひじりえ(いっぺんしょうにんえでん))第六巻』や『遊行縁起(遊行上人縁起絵)(ゆぎょうえんぎ (ゆぎょうしょうにんえんぎえ)) 第八巻』のように絵巻物の中に富士山が多く描かれるようになりました。

この時代は、富士山の美しさそのものを描くというより、物語や伝記類を絵画化する際に、その背景の一部として、富士山が描かれています。

鎌倉幕府の成立以降、東海道の往来が活発になると、富士山を実際に目にする人も増え、想像上の山から、よりリアルな姿に描かれるようになります。『一遍聖絵(一遍上人絵伝) (いっぺんひじりえ(いっぺんしょうにんえでん))第六巻』に描かれた富士山は、美しい円錐形で雪が配置され、私たちのイメージする富士山の形に近づいています。

『遊行縁起』(遊行上人縁起絵) 第八巻 真光寺

『遊行縁起』(遊行上人縁起絵) 第八巻 真光寺

「富士山の絵」というと、どんな姿を思い出しますか?鎌倉時代には、富士山を描く上で、大きな変化がありました。
雄大な三角形と、三角形の山のてっぺんの3つの割れ目(三峯型)。日本人なら誰もが、「富士山の絵だ」と無意識に思うこの形が鎌倉時代に次第に定着し、定型化されるようになりました。
鎌倉時代になると、富士山は想像上の「霊山」から、リアルな姿で描かれるようになりました。現在、定着している三峯型の富士山は、富士山信仰の霊地である静岡県富士宮市の富士山本宮浅間大社から眺めた実際の富士山の姿を描いたものだと言われています。

室町時代

室町時代に入ると、富士山への登拝が次第に大衆化していきます。現在、富士登山の拠点として、静岡県側に3登山口、山梨県側に1登山口あります。それらの拠点は、すでにこの時代に整備されておりました。

当時は、駿河側(現在の静岡県側)に、大宮・村山口登山道(現在の富士宮口登山道)、須山口登山道(現在の御殿場口登山道)、須走口登山道、甲斐側(現在の山梨県側)に吉田口登山道が整備され、現在も活用されている遺産として、世界遺産登録の構成資産として選定されました。

当時、駿河側の登拝の一大拠点であった大宮からの様子を描いているのが、右の絵です。

このような参詣曼荼羅図は、登拝の作法やルートを浸透させるための絵解きとして用いられたと考えられ、一般的な鑑賞絵画とは一線を画すものです。

一方、室町時代になると、物語の背景としてではなく、富士山を中心的モチーフとして扱う絵画が登場するようになります。
室町時代の富士山図として絵画史上最も重要な作品が、雪舟筆とされる『富士三保清見寺図』(永青文庫)です。現在では、雪舟画の古い模本であると考えられていますが、富士山、名刹清見寺という神仏のモチーフに三保松原を加え、「絵になる風景」を作り上げ、後世の富士山図に多大な影響を与えました。これ以降、この構図を用いた数多くの作品が生み出されました。

狩野元信印『絹本着色富士曼荼羅図』富士山本宮浅間大社

狩野元信印『絹本着色富士曼荼羅図』
富士山本宮浅間大社

伝雪舟等楊『富士三保清見寺図』永青文庫

伝雪舟等楊『富士三保清見寺図』
永青文庫

江戸時代

富士山信仰が一般化されるにつれ、富士参詣曼荼羅図も量産化されていきました。

文化・文政年間(1804~30年)になると、江戸八百八講といわれるほど、富士講が爆発的な人気となりました。

右の絵は、江戸時代に制作されたと考えられておりますが、室町時代の作品に比べ、全体的に周辺の描写が簡略化されており、絹ではなく紙に描かれています。

画面のほぼ下半分を富士山本宮浅間大社が占め、その左上端から登山道が山頂まで続いています。

山頂の上空には、左右に太陽と月が描かれ、中央には阿弥陀三尊が描かれています。太陽には、金箔が使用され、阿弥陀三尊には、金泥が施され、神聖さが強調された作品です。

また、富士山の神聖さをイメージするものとして、江戸時代には、しばしば「富士山と龍」がセットで描かれています。

江戸時代には、富士登山者が増え、実際に富士山に「神龍」が棲んでいるとは信じられていなかったと思いますが、神秘的な力をもった龍のイメージと神秘的な霊山である富士山のイメージが結びつき、富士山の霊性、神聖性の象徴として、富士山に向かって龍が上昇する絵が多く制作されました。

18世紀に入ると、富士山は自由に描かれるようになります。南画や円山四条派、洋風画の絵師により富士山絵画はさらに個性的な魅力を放つようになります。

『富士参詣曼荼羅図』静岡県立美術館

『富士参詣曼荼羅図』
静岡県立美術館

山口素絢筆『富嶽図』静岡県立美術館

山口素絢筆『富嶽図』
静岡県立美術館

司馬江漢筆『駿州薩陀山富士遠望図』静岡県立美術館

司馬江漢筆『駿州薩陀山富士遠望図』
静岡県立美術館

『富士山登龍図』静岡県立美術館

『富士山登龍図』
静岡県立美術館

そういった流れを経て、富士山を描いた傑作が生まれます。富士山の代表作とも言える葛飾北斎の『冨嶽三十六景』です。

1831(天保二)年頃に三十六図が出版、のちに十図が追加されて全四十六の富士山が見事に描かれています。北斎は、さまざまな場面に富士山を組み合わせ、まるで構図を楽しんでいるかのようです。あまりにも有名な「神奈川沖浪裏」では、富士山は大波に比べて小さく描かれていますが、その存在感は見る者の目を惹きつけます。波がまた富士山の形をしていて、その配置が絶妙です。

また、『冨嶽三十六景』や歌川広重の『東海道五拾三次』等の浮世絵版画は、遠く海を渡り、マネやモネ、ゴッホ、ゴーガンなどの印象派やポスト印象派の画家たちに大きな影響を与えました。こうして、富士山は、日本のシンボルとしてヨーロッパの人々の心にも刻み込まれました。

富士山は、その孤高の美しさから、古より人々の心をとらえてきました。描かずにはいられない圧倒的な存在感は、いまも健在です。

葛飾北斎『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』山梨県立博物館

葛飾北斎『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』
山梨県立博物館

葛飾北斎『冨嶽三十六景 凱風快晴』山梨県立博物館

葛飾北斎『冨嶽三十六景 凱風快晴』
山梨県立博物館

葛飾北斎 『冨嶽三十六景 山下白雨』山梨県立博物館

葛飾北斎 『冨嶽三十六景 山下白雨』
山梨県立博物館

歌川広重『東海道五拾三次之内 由井 薩埵嶺』静岡県立美術館

歌川広重『東海道五拾三次之内 由井 薩埵嶺』
静岡県立美術館

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